2Pac/2パックC〜獄中からのメッセージ
 
 
1995年2月14日、2Pacはクリントン刑務所に収容され、
一か月後、3枚目のスタジオ・アルバム
『Me Against The World/ミー・アゲンスト・ザ・ワールド』がリリースされた。
2Pacはこのアルバムを「ブルース・レコードのようなもの」とコメントしたが、
いったい「ブルース」とは何なのか。
それは今から120年ぐらい前に
アメリカ深南部のアフリカ系アメリカ人の間で生まれた音楽であり、
喜びや悲しみ、怒り、葛藤、絶望といった人間の喜怒哀楽を
赤裸々に歌と楽器で表現したものだ。
2Pacは自らの魂と向き合って感情をさらけ出し、全てを曲に注ぎ込んだ。
その結果彼の魂は浄化され、
アルバムは今までにない輝きを放つことになったのだ。
 
アルバム「Me Against The World」に関する2Pacの言葉が
ジェイク・ブラウンが著した本「Tupac Shakur In The Studio/
トゥパック・シャクール 音楽活動の軌跡 1989-1996」に載っていたので、
一部抜粋して紹介する。
 
「このアルバムは一番の作品だ。 そしてオレの真実だ。
オレは本物のままでいたい。 オレはギャングスタ・ラッパーではない。
オレは自分の身の上に起こったことについてラップするんだ。
オレは5回撃たれた。オレの言ってることがわかるかい。
やつらはオレを殺そうとした。 これは現実に起きたことだったんだ。
オレは自分が特別だとは思っていない。
オレはただ、自分の次に出てくるやつよりも責任があるってことは分かってる。
みんなはオレが次の時代のためにやることを期待している。
つまり、答えを用意することだ。
このアルバムでオレは答えを書いた。
だからオレは自由かもしれない」
 
2Pacは収監される前、ガール・フレンドのキーシャ・モリスにプロポーズし、
1995年4月に獄中結婚している。
キーシャ・モリスはカレッジで犯罪科学を勉強し、教育学の修士も持つ才媛だ。
 
キーシャによると2Pacと初めて会ったのは1994年6月で、
場所はニューヨークのキャピトルというクラブだった。
その時キーシャは20歳。
パーティで賑わうクラブに入って来た2Pacに
キーシャはほんの少し話しかけたが、すぐにその場を離れたという。
それから一ヶ月後、キーシャはマンハッタンにある別のクラブで2Pacを見かけ、
彼女に気付いた2Pacは近寄ってきてこう言ったそうだ。
 
「あの時君は黒いドレスを着ていて、
オレに5分ぐらい話しかけたよね。
この一ヶ月、君を探していたんだ。
毎日君のことを考えていたよ」
 
再会した時の様子をキーシャは次のように語っている。
「私は驚いたわ。
だって初めて会った時の事を彼は全て覚えていたから。
それから彼は私を外に連れ出そうとした。
最初は怖かった。彼がどこの出身かも知らなかったし。
”何で私なの?”って聞いたら彼はこう答えたの。
”今までオレをあんなに軽くあしらった女性はいなかったから”って。
私は彼と出会った時、あまり関心を示さなかった。
それが彼の気を惹いたみたい」
 
2Pacが出所した事もあって婚姻期間は10か月で終わってしまったが、
結婚を決意するまで二人で何回も話し合いを重ねたと
キーシャはインタビューで答えている。
アメリカの刑務所には個室で会える夫婦面会があり、
そのために2Pacは結婚をしたのではないかと巷で噂されたが、
彼女はきっぱりと「そのような事は一切なかった」と証言した。
 
離婚後も2Pacはキーシャに電話をかけ、
「元気でいる?」とか「この曲を聴いて」「上手くいきそうだ」
といったメッセージを残し連絡を取り続けたようだ。
キーシャは2Pacが、
「今は理解してもらえないけど、後できっとわかるよ」
と言った事を鮮明に覚えているという。
「彼は私を傷つけたくないから別れたのね。
今なら理解できる」と彼女は言った。
 
刑務所で2Pacは何を考え、、どのように過ごしていたかは
獄中と出所後に受けたインタビューで明らかになっている。
1995年1月、2Pacはニューヨークの孤島にある刑務所
「ライカーズ・アイランド」に拘置されており、
この時は自らインタビュアーを呼んで
刑務所暮らしや常用していたマリファナ、
前年に起きた銃撃事件について洗いざらい話し、
記事はヒップホップ雑誌「Vibe」に掲載された。
 
2Pacによると、
刑務所に入って最初の二日間はマリファナを吸えない
禁断症状に悩まされたが、
マリファナが抜けた後は読書や書き物をする事で
心の平静を取り戻し、今までの生き方を反省するようになったらしい。
自分はどこにいてもマリファナや酒、タバコと縁が切れず、
頭が半分イカれた状態で、まさしく「中毒患者」だったが、
これからはそんな過去の自分と決別し、
神の思し召しに沿った生き方をしたいと話していた。
 
実刑判決を受けた後に収容されたクリントン刑務所でも
2Pacはインタビューに応じている。
この映像は1995年9月に収録されたが、
そのほとんどがお蔵入りになっており、
インタビューの最後で2Pacはアルバム「Me Against The World」に
収録されている『Can U Get Away』ヘッドホンで聴きながらラップしている。
約45分のインタビュー映像を観て印象に残った事は
2Pacの話し方と表情が穏やかで眼差しが理知的なこと。
もう一つは彼の後ろに貼ってある大きな顔写真だった。
 
この子はいったい誰なのか?
よく見ると写真の横にRobert “Yummy” Sundifer/
ロバート・”ヤミー”・サンディファーと書いてある。
ネットでその名を調べたら11歳で射殺された少年だとわかった。
ヤミーは30以上の悪事で逮捕された母親から酷い虐待をされて育ち、
3歳の時に祖母に引き取られたものの、
そこには19人もの子どもがいて環境も劣悪だったため、
8歳の時には学校をやめてストリートをうろつき
恐喝や盗みをはたらいていた。
10歳の時に祖母の家から施設に送られたが、
すぐに脱走してシカゴのギャング団に入り、
強盗や放火、殺人に手を染めていく。
1994年8月28日にヤミーは発砲事件を起こし、その時受けた傷で少女が死亡。
ヤミーは警察に追われた為、
密告を恐れた16歳と14歳のギャング仲間は数日後に彼を射殺した。
ヤミーの人生と死はアメリカ社会に衝撃を与え、
都市部が抱えるギャング問題の象徴として大きくマスコミに取り上げられたのだ。
 
そのヤミーが写ったポスターの前で2Pacは、
自身が提唱する「サグ・ライフ」や1994年の銃撃事件、
厳重警備が敷かれている刑務所での辛い日々や
音楽のこと、そして黒人の若者が抱える問題などについて語った。
 
刑務所での最初の8か月は読書に耽り、脚本も書いたという。
マヤ・アンジェロウの著書や孫武の兵法書『孫子』などを読み、
ディオンヌ・ファリスなどいろいろなタイプの音楽を聴きながら過ごしたものの、
作詞・作曲をする意欲が全く起きず、
刑務所に入った事で音楽に対するクリエイティヴな精神が
失われてしまったようだ。
 
音楽を作る上で彼はドン・マクレーンやシェークスピア、
マーヴィン・ゲイといった様々なアーティストから影響を受け
インスピレーションを刺激されたと語っている。
アルバムのタイトル曲にもなっている
『Me Against The World』に話が及ぶと、
2Pacはデロリス・タッカーやボブ・ドールといった
権威者の名前を挙げ、彼らが自分を社会悪だと非難した事に対する
反論の意味を込めてアルバムのタイトルにこの曲を選んだと話した。
 
彼は自分の母であるアフェニをはじめ、世界中の母親を賛美した。
そして11歳で殺されたロバート・”ヤミー”・サンディファーに言及しながら、
カリフォルニア州に住むある10代の子どもが
アルバム「Me Against The World」を買った翌日に射殺され、
葬式でアルバムの収録曲『Dear Mama』がかかったことを
その子の叔母から手紙で知らされ、とても心を動かされたと言っている。
ヤミーの事件に限らず、都市部のコミュニティが抱える銃暴力に関して
彼に解決の糸口を求める人々は少なからずいたようだ。
 
インタビュー中に彼が発した言葉をいくつか列挙してみる。
 

「オレはいつも闘い続け、もがいてきた。
死ぬってこと以外にそれを制止できない」
 
「オレはギャングスタのライフスタイルで生きてきたけど
もう前に進んだよ。 高校を卒業するようにね。
オレはもっと向上したかった。成長したかったんだ」
 
「オレはみんなに理解して欲しいのさ。
オレたち黒人がどんな状態にいるのかっていうことを。
刑務所に入ったり、出たり。また戻ったり。
その繰り返しなんだよ」
 
「黒人の男達はまるで物語に出てくる
キャラクターのような人生を歩んでる。
もっと賢くなる必要があるし、
オレたちはもっと力を合わせてまとまっていくべきだ」
 
「”暴力追放”なんて言ってるけど非現実的だ。
政府は黒人に対して暴力的じゃないか」
 
「オレは親友だと思っていた仲間に裏切られた。
自分しか信じられない」
 
「恐怖は愛情よりも勝るんだ。
オレが与えた愛は恐怖に打ち消された」
 
「オレには将来のプランがたくさんある。
アルバムや映画、そしてコミュニティのためのサービスさ」
 
「刑務所に来るな。
人生が台無しになる前にギャングから足を洗え」
 
「出所した途端に殺されるかもしれないな。
既に5発も被弾している。 もうそれで十分だ」
 
「オレを立ち止まらせることができるのは死だけだ。
それでも音楽は永遠に生き続ける」
 

2Pacは「アメリカ黒人の地位向上のためにわが身を削れ」
と言われて育ったため、
黒人のために敵対する勢力に立ち向かい、仲間に尽くしてきた。
それなのに同胞から銃撃され、仲間は負傷した彼を介抱しなかったので
2Pacは心に大きな傷を負って人間不信に陥ってしまう。
そこで彼は裏切った仲間を後悔させ、強くなって復活するために
音楽活動の再開を最優先しようと考えたのである。
 
服役中、2Pacは新たなラップ・グループを作ることを思いついた。
グループ名は「ザ・アウトロウズ・インモータルズ」で、
メンバーは「サグ・ライフ」や「ドラマサイダル」
といった2Pac周辺のグループやファミリーからピックアップし、
彼らに独裁者や主導者に因んだステージ・ネームをつけた。
 
メンバーはヤキ・カダフィ、カストロ、E.D.I.・ミーン、フセイン・フェイタル、
ナポレオン、ムッソリーニ(ビッグ・サイク)、コメイニ(モプリーム)で、
1996年の夏に加入したヤング・ノーブルは
2Pacが承認した最後のメンバーである。
元「サグ・ライフ」のメンバーで新グループのサブ・リーダーとなった
ビッグ・サイクは、リーダーの2Pacが出所するまで足繁く面会に訪れた。
 
1995年10月、2Pacの弁護側は上訴したため
140万ドル(当時の約1億1千万円)の保釈金が必要となったが、
2Pacは工面する事ができなかった。
その保釈金を用立てしたのは、デス・ロウ・レコードの
最高経営責任者シュグ・ナイトである。
 
シュグ・ナイトは以前から自分が設立したレーベルに移籍しないかと
2Pacを勧誘していたが、2Pacは「上手くいっているから」と断ってきた。
ところが2Pacが収監されると、チャンス到来とばかりに
シュグはロサンゼルスから度々面会に訪れ2Pacの獲得に動き出す。
彼が提示した条件とは、140万ドルの保釈金を支払う代わりに
デス・ロウに移籍してアルバムを3枚をリリースするという事だった。
 
シュグ・ナイトはストリート・ギャング出身で、
暴行罪や脅迫罪、殺人罪など数々の犯罪に関わったという黒い噂があった。
2Pacもそれを承知していたが、彼の心は常に音楽にあった為、
シュグ・ナイトとレコード契約を結ぶ事を決めたのだ。
「悪魔と契約したも同然」と彼の決断に疑問を抱く人も多かったが、
他に選択肢はなかったのである。
2Pacは刑務所内でデス・ロウ・レコードと契約し、釈放された。
 

<2013・10・6>











元妻キーシャ・モリスとトゥパック


















































ロバート・"ヤミー"・サンディファーの前で










































「アウトロウズ」のメンバーとトゥパック