2Pac/2パックB〜光と影の狭間で
 
 
1989年、2Pacのマネージャーになったレイラ・スタインバーグは、
2Pacのグループ「ストリクトリー・ドープ」のデモ・テープを作って
デジタル・アンダーグラウンド(D.U.)のマネージャー、アトロン・グレゴリーに送った。
D.U.のリーダーでリードMCだったショックGは、
アトロンの紹介でデビュー・アルバム「Sex Packets」の制作中に
初めて2Pacと会うことになる。
 
ショックGによると、スタジオに現れた2Pacの印象は強烈で、
自分を売り込むのに必死だったという。
その場でラップしてもらったところ、
内容は政治的なものが多く未完成な状態だったが、
教養とストリートの強さを兼ね備えたものだったらしい。
 
この曲はアメリカが抱える社会問題に言及して政府を批判したものだが、
彼の人生を追ったドキュメンタリー・フィルム
17歳の2Pacは以下のように語っていた。
 
「僕は女性や車も大好きですが、社会問題に目を向けたいのです」
 
ラップは2Pacにとって、コカイン・ベイビーや貧困、暴力など、
自分がストリートで見てきた数々の惨事を世間に公表するための手段だった。
かつて、ベトナム戦争の様子がレポートされ、
その真実と悲惨さが世界に知れ渡ったことで戦争が終わったように、
ストリートで起こっている惨状をラップでレポートすれば、
世論の高まりを受けて負の連鎖がストップすると2Pacは考えたようだ。
  
アトロンは2Pacのラップに光るものを感じ、ショックGも賛成して、
1990年、デジタル・アンダーグラウンドの
ローディー兼バック・ダンサーとしてグループに加入させることにした。
 
70年代の多様なファンク・バンドに影響を受けてきたD.U.は、
デビュー・アルバム「Sex Packets」を1990年の春にリリース。
シングル・カットされた『The Humpty Dance/ハンプティ・ダンス』は
全米チャートで11位にランクインし、アルバムも100万枚以上売り上げた。
この年、2PacはD.U.の一員として来日公演を行った。
 
D.U.がセカンド・アルバムの制作に取りかかっている頃、
俳優兼脚本家のダン・エンクロイドから映画のサントラ話が舞い込み、
1991年2月に公開されたホラー・コメディ映画
「Nothing But Trouble/絶叫屋敷へいらっしゃい」で
D.U.の『Same Song/セイム・ソング』と『Tie The Knot』が使われた。
セカンド・アルバム「This Is an EP Release」がリリースされ、
2Pacは晴れてラッパーとしてデビューする。
アルバムもヒットしてゴールド・ディスクを獲得。
 
2PacはD.U.のサード・アルバム「Sons of the P」にも参加したが、
ついに1991年11月、インタースコープ・レコードから
デビュー・アルバム「2Pacalypse Now/2パカリプス・ナウ」をリリースし、
ソロ・デビューを果たす。
アルバムのタイトルは、フランシス・フォード・コッポラ監督による
ベトナム戦争を舞台にしたエピック(叙事詩的)映画
「Apocalypse Now/地獄の黙示録」(1979年公開)に因んで付けられた。
 
アルバムはストリートに生きる黒人青年にまつわる物語で、
アメリカが直面している社会問題
(人種差別、警察の蛮行、貧困、少女の妊娠など)をモチーフにしている。
このアルバムは2Pacの活動家としての一面を顕著に示す作品であり、
多くの評論家やラッパーたちによって賞賛された。
しかし、ある事件が起きた事で大論争が起こる。
テキサス州に住む青年が、「2パカリプス・ナウ」に影響を受けて
州警官に発砲し、殺人事件を起こしたのだ。
 
それを知った当時のダン・クエール副大統領は、
2Pacのアルバムを痛烈に批判したが、
アルバムはゴールド・ディスクに認定され、

2Pacにとってデビュー・シングルとなった
『Brenda's Got a Baby』は、彼が新聞で読んだ記事
(ゲットーに住む12歳の少女が従弟によって妊娠させられ、
両親に知られたくなかったので生まれた赤ちゃんをゴミ箱に捨てた)
を元にして作られたものである。
 
『Trapped』は警察の野蛮な行為をテーマにした曲だが、
この頃から2Pacが警察に連行される事件が起きてくる。
 
ある時、2Pacが信号無視をして道路を渡ったところ警察に捕まり、
身分証の提示を求められた上に名前を馬鹿にされたので
文句を言ったら、警官から暴行を受けて気を失い、
気が付いたら手錠をはめられていた。
そこで2Pacは1991年10月、オークランド警察を相手に
賠償金1000万ドルの訴訟を起こしたのである。
警察は4万2000ドルの示談金を支払い、双方は和解した。
 
その翌年の1992年8月、
2Pacがかつて住んでいたマリンシティで開催されたフィスティバルに
義兄弟のモプリームや友人たちと参加して住民と交流を深めていたら、
あるグループと口論になりバトルに発展。
2Pacは銃を取り出したが、
殴られた時にそれを落としモプリームに銃を拾うよう指示。
その時暴発が起きて、流れ弾が100メートル先で自転車に乗っていた
6歳の男児の頭に当たって死亡する事故が起きた。
2Pacとモプリームは逮捕されたが、証拠不十分で釈放される。
2Pacはこの事件に酷く心を痛め、
『Something to Die for』という曲を作って亡くなった男児に捧げた。
 
1993年2月、2Pacのセカンド・アルバム
「Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z./ストリクトリー・4・マイ・ニガズ」がリリースされる。
このアルバムはデビュー・アルバムよりも商業的な成功を収め、
前作と同様、多くの楽曲に彼の政治的かつ社会的な考えが盛り込まれた。
『I Get Around/アイ・ゲット・アラウンド』はそれぞれシングル・カットされ、大ヒット。
アルバムは100万枚以上売上げてプラチナ・ディスクを獲得した。
 
「自分には取り巻きがたくさんいてモテまくり」と歌った
『I Get Around』ではD.U.のショックGとマネーBが客演している。
プロデューサーはショックGで、
ザップの『Computer Love』とギャングスターの『Step in the Arena』
をサンプリングしたもの。
緩めのリズムが心地良くサウンドがカッコいい。
これは2Pacにとって初めて全米でトップ20入りしたシングルであり、
12位まで上りつめてセールスもアップ。ゴールド・ディスクが贈られた。
 
『Keep Ya Head Up』は万引き犯の疑いをかけられた後に
女店主から射殺された15歳の少女、ラターシャ・ハーリンズに捧げた曲である。
1991年3月、韓国系アメリカ人の店で起きたこの事件は、
13日前に起きたロサンゼルス市警によるロドニー・キング殴打事件と共に、
人種差別やロス市警による黒人への恒常的圧力に苦しんできた
アフリカ系アメリカ人の怒りを一気に噴出させ、
「ロス暴動」(1992年4月29日に勃発)の引き金になった事件として重要だ。
 
2Pacは「オレたちは女性から生まれて名前と勇気を授かった。
なのになぜ女性をレイプしたり軽蔑したりするんだ?
女性を大切にしてリアルになるべき時が来たんだ。
そうしないと生まれてきた子もまた同じことをする」と曲中で訴えている。
PVには親友のジェイダ・ピンケットが出演し、
全米チャートで12位にランクインした。
 
1993年の後半、2Pacは友人のビッグ・サイクやマキャドシス、
義兄のモプリームなどに声をかけ、
「Thug Life/サグ・ライフ」というラップ・グループを結成する。
彼らは1994年6月、アルバム「Thug Life: Volume 1」をリリースして
ゴールド・ディスクを獲得。
ジョニー・"ジェイ"・ジャクソンがプロデュースした。
これを機に彼は2Pacのアルバム制作にかかわるようになり、
後に大きな役割を果たす。
『Cradle to the Grave』もサグ・ライフの代表曲となった。
 
一方、俳優としても名声を得た。
1992年1月に公開された映画「Juice/ジュース」では、
暴力的なビショップ役を演じて演技力を高く評価される。
この映画はニューヨークのハーレムで暮らす4人の黒人青年にスポットを当て、
警察からのハラスメントや家族の問題など、
いかに彼らが日々深刻な問題に直面していたかを描いたものだ。
 
1993年7月に公開された映画「Poetic Justice/愛するということ」では
映画初主演のジャネット・ジャクソンの相手役に選ばれ、
前作とは違うシリアスな役柄に挑んだ。
監督は映画「ボーイズ・イン・ザ・フッド」(1991年)で
メガホンを取ったジョン・シングルトンである。
その後、「Avove The Rim/ビート・オブ・ザ・ダンク」(1994年)に出演。
 
ミッキー・ロークと共演した「Bullet/ハード・ブレッド 仁義なき銃弾」(1996年)、
「Gridlock'd/グリドロック」(1997年)と「Gang Realted/ギャングシティ」(1997年)は
2Pacの死後公開され、「ギャングシティ」が遺作の映画となった。
彼が亡くなる直前まで親交があり心の支えにしていた親友、
 
しかし、輝かしいキャリアとは裏腹に事件は起き続ける。
 
双子のアルバートとアレン・ヒューズ兄弟から依頼を受け、
彼らが制作していた映画
「Menace II Society/ポケットいっぱいの涙」(1993年公開)に
出演が決まっていた2Pacは、役をめぐって兄弟とトラブルになり、
一方的に降板させられた。
その事に腹を立てた2Pacは、1993年のある日、
兄弟と出くわした時にアレンを殴って逮捕起訴される。
判決は15日間の禁錮刑だった。
 
1993年10月、今度は警官とイザコザを起こす。
アトランタで共に非番だった二人の兄弟が
それぞれの妻を伴って祝宴を開いたその帰り、
道を横切ろうとしたら、2Pacを乗せた車とぶつかりそうになり、
兄弟は運転手に文句を言い始め、
止めに入った2Pacを巻き込んでけんかに発展したのだ。
2Pacは兄弟の尻と脚に発砲した罪に問われ告訴されたが、
兄弟は飲酒しており、盗品の銃を所持していたことも発覚。
2Pacの車に発砲したり嘘の供述をしていたことも判明し、
結局2Pacの正当防衛が認められて告訴は取り下げられた。
 
ところがついに、晴天の霹靂とも言える罪で逮捕されてしまう。
1993年11月18日、ニューヨークのナイトクラブで知り合った女性ファンに対し、
ホテルの一室で3人の仲間と性的暴行を働いた罪で捕まったのだ。
女性はこの事件の4日前に2Pacとクラブの中で
自ら進んで関係を持った事は認めたが、今回は「強姦だった」と訴えた。
 
2Pacは「事実無根のことばかり。暴行なんてしていない」と罪を否定し、
彼の弁護士も「この申し立ては成立しない。
女性は合意の上で入室し、その証拠テープは警察に消された」と主張。
親しい友人たちも「彼がそんな事をするはずがない」
「でっち上げ」「ハメられた」と思ったようだが、
証拠がなかった為、2Pacはローディーのフラーと共に逮捕起訴される。
 
ドキュメンタリー・フィルム「サグ・エンジェル」の中で、2Pacはこう訴えていた。
「なぜオレだけが裁判にかけられるんだ。
オレは無実なのに容疑をかけられた。
ただ仲間と遊んでいただけなのに。
オレが腹を立てているのはこの国のやり方だ。
何もしていないのにムショ送りだぜ」
 
2Pacは5万ドルの保釈金を支払って釈放されたが、
一年後に下された判決は2Pacの人生を台無しにするものだった。
 
そしてとうとう命の危機に晒される事件が起きてしまう。
1994年11月30日、
アップタウン・レコードのリトル・ショーンとレコーディングする為、
友人と一緒にニューヨークのタイムズ・スクエアにある
クアド・スタジオに行こうとしてエレベーターに乗り込もうとしたら、
2Pacは待ち伏せをしていた二人組の男から5発の銃弾を浴び、
ダイヤモンドの指輪やゴールド・チェーンなど
総額4万ドル相当の宝飾品を強奪されたのだ。
 
2Pacは負傷したままエレベーターに乗り込み、上の階へ行った。
そこにはバッド・ボーイ・レコードのビギー・スモールズや
ショーン・"パフィ"・コムズ、そしてアップタウンレコードの社長、
アンドレ・ハレル他複数の関係者がいた。
 
2Pacの証言によると、
彼らは今まで2Pacと懇意にしていたにもかかわらず、
誰も彼に近寄ろうとせず、見向きもしなかったらしい。
唯一血だらけの2Pacを見て泣き出したのはリトル・ショーンだったという。
2Pacはまずガールフレンドに電話し、
撃たれたことを母親に知らせて欲しいと頼んだ。
そのうち警察と救急車が到着し、カメラマンもやってきて
ストレッチャーに横たわる2Pacにカメラを向けたのだ。
その時2Pacはこう言いながら指でジェスチャーした。
「こんなところを撮るなんて信じられない!」
 
搬送されたベルビュー病院で、
頭部や左手、右脚つけね付近からの
大量出血を止めるための手術が行われ、一命は取り留めたが、
その3時間後、2Pacは医者の制止を振り切って退院してしまった。
主治医は言った。「こんな患者は25年のキャリアの中で初めてだ」
アトランタから飛んできた母親のアフェニは
外で待ち構えていたレポーター達を押しのけながら
包帯でグルグル巻きにされた2Pacを車イスに乗せて裏口から出た。
 
その翌日、2Pacはレイプ事件の判決を聞くために
ボディガードに車イスを押されながらマンハッタンの法廷に現れた。
陪審員は性的虐待3件で有罪、他6件では無罪の評決を出しており、
判事は2Pacに有罪を言い渡した。
1995年2月初め、2Pacに1年半以上4年半以下の禁錮刑、
共犯者のフラーには禁錮4か月、保護観察5年という判決が下された。
その時、2Pacは被害者に対して
「こんな大事になってとても残念だよ」と涙ながらに謝ったが、
それでも「自分は罪を犯していない」と主張した。
 
1995年2月14日、2Pacはニューヨークのクリントン刑務所に収監される。
ちょうど1か月後の3月14日、彼の3枚目のアルバム
「Me Against The World/ミー・アゲンスト・ザ・ワールド」がリリースされた。
アルバムは、1993年から1994年にかけて収録された
サグ・ライフ時代の未発表曲と
いくつかのスタジオ・セッションの曲で構成されている。
 
2Pacにとって1993年と1994年は、警察とのトラブルや
迫りくる投獄の不安、命の危機を体験した不穏な年となった。
また、レイプ事件による仕事の減少と多額の弁護士費用、
家族への送金等で一文なし状態に陥っており、
生活していくためには気前よくおごってくれる業界関係者に
面倒をみてもらうしかなかったのである。
 
しかし、彼の間断なく続く苦しみと葛藤は芸術に昇華され、
アルバム「Me Against The World」という形で結実。
2Pacの内省的な告白や心の叫びは曲の随所で見られ、
それは魂の再生を感じさせるものだった。
アルバムは4週連続で全米チャートのトップに輝き、
200万枚以上売上げてマルチ・プラチナ・ディスクに認定される。
 
収監中にリリースされたにもかかわらず、
いきなりトップに躍り出たアルバムは前代未聞だったので、
世間は2Pacの快挙に度胆を抜かれ、
このアルバムを絶賛するレビューもたくさん書かれた。
 
1995年2月にリリースされた
アルバムからの先行シングル『Dear Mama/ディア・ママ』
ラップ部門で1位にランクインし、プラチナ・ディスクを獲得。
アルバムの中で最もヒットしたシングルとなる。
 
他にシングル・カットされた2曲は
ショックGがプロデュースした『So Many Tears』
イージー・モー・ビーがプロデュースした『Temptations』で、
ジョニー・ジェイがプロデュースした
『Death Around the Corner』では自らの死を予言した。
 
2Pacは「Me Against The World」について以下のようにコメントしている。
 
「It was like a blues record. It was down-home.
It was all my fears, all the things I just couldn't sleep about.
Everybody thought I was living so well and doing so good that I wanted to explain it.
And it took a whole album to get it all out.
I get to tell my innermost, darkest secrets I tell my own personal problems.」
 
--Tupac Shakur
 
「それはブルース・レコードのようなものだった。 
素朴な感じのね。
眠ることすらできなかった程の恐怖。
それがこのアルバムの全てだ。
みんなはオレがいい暮らしをしていると思った。
それを説明したかったんだ。 
そのためにはアルバムが丸ごと必要だった。
オレは心の最も深い部分、
最もベールに包まれた秘密の部分、
自分の問題を告白している」
 
--トゥパック・シャクール             
                                                        訳:Kaori     
            
 
 
<2013・7・15>










デジタル・アンダーグラウンド
















「2パカリプス・ナウ」























「ストリクトリー・4・マイ・ニガズ」






















映画「ポエティック・ジャスティス」でラッキー役を演じる




















ジェイダとトゥパック












































「ミー・アゲンスト・ザ・ワールド」