2Pac/2パックA〜生い立ち
 
 
アメリカのラッパーであり、俳優でもあった2Pac/ トゥパックは、
1971年6月16日、ニューヨーク市マンハッタン区東ハーレム地区で誕生した。
生まれた時の名は 「Lesane Parish Crooks」と言われている。
母親はアフェニ・シャクールで、元ブラック・パンサー党員だ。
アフェニは、名の知れた活動家だったという自分の過去を考慮し、
息子に危害が及ぶのを恐れて、子どもには別の名字を付けたらしい。
 
後にアフェニは息子の名を
「Tupac Amaru Shakur/トゥパック・アマル・シャクール」とした。
「トゥパック・アマル」は古代インカ語で「輝ける龍」という意味。
インカ帝国(南米のペルー、ボリビア、エクアドル周辺にケチュア族が作った国)
最後の皇帝「トゥパック・アマル」と、その末裔だと自称し、
「トゥパック・アマル二世」を名のって
スペイン軍に抵抗して反乱を起こした
ホセ・ガブリエル・コンドルカルキに因んで付けられている。
双方とも、植民地支配をしようとしたスペイン軍に抵抗して
不屈の精神で戦ったが、軍に捕えられ処刑された。
 
2Pacは亡くなる数か月前、
生前最後のアルバムとなった「オール・アイズ・オン・ミー」をリリースした後、
自身のステージ・ネームを「2Pac」から「Makaveli/マキャヴェリ」に改めた。
獄中で読んだイタリアの政治思想家、
マキャベリの著書『君主論』に感銘を受けたためである。
 
2Pacの父親の氏名だが、長らく公表されていなかった。
アフェニが2Pacをお腹に宿した頃、
彼女にはドラッグの売人をしていた通称”レグス”と
ブラック・パンサー党員だったビリー・ガーランドという二人の愛人がいたため、
息子には「父親はわからない」と答えてきた。
ところが後に、実父はビリー・ガーランドだと判明する。
2Pacが5歳になるまで、ビリーは数回息子に会ったというが、
次に息子を見たのは映画「ジュース」(1992年 )の中だった。
2Pacは父親のことを、「会いに来ないのは既に亡くなっているから」
と諦めていたが、実は他で家族を作り幸せに暮らしていたのだ。
2Pacが最初の銃弾に倒れた1994年、
ビリーは18年ぶりに姿を現し、重傷の息子を見舞っている。
 
母親のアフェニ・シャクールは、
1947年1月22日、「アリス・フェイ・ウィリアムス」として  
ノースカロライナ州ランバートンで生まれた。
彼女が11歳の時、姉と共にニューヨークに移って来て
ブロンクスの高校に入学したが、トラブルの多い子どもだったらしく、
「15歳の頃には既に薬物に手を染めていた」と
アフェニはインタビューで告白している。
 
そして、いつしかブロンクスの「マニーズ・バー」に集う
常連たちと付き合うようなり、
彼らから「ネーション・オブ・イスラム」という
アフリカ系アメリカ人のイスラム運動組織を紹介され、
組織の重鎮だったマルコムXの教えに耳を傾けたが、
最終的に彼女が選んだ組織はブラック・パンサー党だった。
 
ブラック・パンサー党とは、1960年代後半から1970年代にかけて、
革命による黒人の解放や地位向上を行おうとした急進的な政治組織である。
アフェニは1968年、ニューヨークの公立学校の教師たちがストライキを起こし、
当時小学一年生だった甥っ子が学校に通えなくなったのを見て、
学校を再開させるためにブラック・パンサー党に加盟する。
そして党の集会でルムンバ・シャクールと出会って恋に落ち、結婚。
その時名前を「アフェニ・シャクール」に改めた。
 
アフェニは熱心な活動家として組織のセクション・リーダーになり、
貧しい子どもたちに朝食を用意する計画を立て実行したが、
1960年代の終わりになるとブラック・パンサー党を取り巻く情勢は悪化し、
結果的に、何人もの中心的メンバーが次々と殺され、
アフェニも1969年、夫を含む他の党員20人と共に、
ニューヨークにある銀行やデパートなどのビル爆破を企てた罪で逮捕された。
彼女は11か月間勾留された後に仮釈放され、その間に妊娠。
勾留中の夫に「父親はあなたではない」と告げ、二人は離婚した。
 
アフェニは妊娠5か月の時、
保釈が取り消されて刑務所に収監される。
檻の中で大きくなっていくお腹をたたきながら、
彼女はこう言ったそうだ。
「この子は私の王子様。 黒人の救世主になるわ」
 
アフェニは刑務所内で法律書を読み、
嫌疑がかけられていた156の事案に対して
自ら法廷で弁護し、無罪判決を勝ち取って釈放された。
それから1か月余り後の6月16日、2Pacは産声をあげたのである。
 
アフェニはニューヨークのブロンクスに住み、
弁護士の助手をしながら息子を育てていった。
2Pacはまわりから「黒人の王子様」と呼ばれ、
間違った行いをすると、母親は罰として息子に
「ニューヨーク・タイムス」を端から端まで読ませたという。
 
アフェニはその後、
ムトゥル・シャクール(アフェニの元夫、ルムンバの法定上の兄弟)と結婚し、
1975年に娘、セキワを出産する。
ムトゥル・シャクールは2Pacの継父となったが、
政治活動家として不安定な生活を送っていたので、
家族をサポートすることはできなかった。
 
ムトゥルは反政府運動を行うアフリカ系の軍事組織
「Black Liberation Army/黒人解放軍」のリーダー的存在であり、
1981年10月、ニューヨークで起きた武装強盗の主要メンバーだった。
彼らはブリンクス(警備運送会社)の装甲車から160万ドルを盗み、
警官2名とガードマン1名を殺害。
ムトゥルは1986年2月にカリフォルニア州で逮捕され、
禁錮60年の判決を受け投獄された。現在も刑に服している。
ちなみにムトゥルとアフェニは1982年に離婚した。
 
上記の家族の他に、
2Pacの人格形成に影響を与えた人物が二人いる。
それは2Pacの後見人だった「ジェロニモ・プラット」と
母親の愛人、「レグス」だ。
 
ジェロニモ・プラットはルイジアナ州出身で、
高校卒業後はベトナム戦争に従軍して軍曹にまで上りつめ、
退役後はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で政治学を学んだ。
その後ブラック・パンサー党の幹部から勧誘を受け、党に加盟。
瞬く間にロサンゼルス地区のリーダーになった。
 
しかし、1968年12月にロスで起きた
小学校教師強盗殺人事件の犯人として1970年に逮捕起訴され、
二年後に終身刑が確定して投獄される。
ところが、ジェロニモには事件に関わっていない有力な証拠があり、
それが揉み消されていたため、収監後も無罪を訴え続け、
25歳から27年間刑務所で過ごした後、
ようやく証拠が認められて、1999年に無罪判決を受け釈放された。
ジェロニモは冤罪の被害者として、
63歳で亡くなるまで人権活動家として働いた。
 
ジェロニモはムトゥル・シャクールの親友だったこともあり、
2Pacは心の底から彼をリスペクトしていたようだ。
ジェロニモについて言及した曲もいくつかある。
 
レグスはハーレムを拠点にしていたドラッグの売人で、
2Pacが12歳の頃から頻繁に家に出入りするようになり、
アフェニにクラックを勧めてドラッグ地獄へと導いた。
一方、2Pacに対しては父親のような振る舞いをしたため、
父を欲していた2Pacはいつしかレグスの中に父親像を見出していく。
2Pacはインタビューで、
「自分の中に宿っている”Thug/サグ(チンピラ)”的要素は、
レグスによって植えつけられた」と語っている。
 
アフェニはブラック・パンサー党を脱退した後、
過去を隠して何とか生計を立てていたが、
活動家だったことが気付かれると職を解雇された。
一家はホームレスのシェルターに入ったり、
ムトゥルが逃亡している間は警察に付け回され、
ブロンクスのどこにいようと家族は貧しく辛い経験を強いられた。
2Pacは自分の幼少期について以下のように回想している。
 
「いつも泣いてたよ。どこにいてもなじめなかった。
オレは母親といろんな場所を点々としてたから、
仲のいい友達がいなかったんだ。
子どもの頃はおとなしくて本を読んだり詩や日記を書くのが好きだった。
”自分の顔は男らしくないな”と思っていたら
”顔が女みたいだ”って従弟にからかわれるようになった。
もしも自分に父親がいて厳しく育てられていたら
もっと自信が持てただろうな」
 
2Pacは寂しさを紛らわすためによくテレビを観ていた。
虚構の世界にいる人々を眺め、真似をしながら、
「自分もそこにいて役を演じることができたら
どんなに楽しだろう・・・」と思いながら。
そこでアフェニは、
息子をハーレムの127丁目にある劇団に入れることにした。
12歳の時、『A Raisin in the Sun/ア・レーズン・イン・ザ・サン』
(映画『黒い一粒のプライド』の元になったミュージカル)で
トラヴィス役を演じ、舞台デビューを果たす。
 
その時の感動を2Pacは以下のように語っている。
「場所はアポロ・シアターだった。
幕が上がると、オレはソファーに横たわって寝ていた。
起き上がったらステージにいたのはオレだけ。
”スゴイ!これだ!”って思ったね。 あの時は本当に興奮したよ」
実際、彼は役を演じるのが上手だった。
違う自分を演じていると、辛い現実を忘れることができたので
役にのめりこむことができたのである。
 
1986年、一家はメリーランド州のバルティモアに移った。
そこで2Pacはバルティモア芸術学校のオーディションを受け合格。
彼はシェイクスピアの作品や「くるみ割り人形」などのバレエ作品で
役を演じるなど、演劇やバレエ、音楽を幅広く学んだ。
また、この頃ラップにも没頭するようになり、リリック(詩)を書き始めている。
 
2003年にアメリカで公開された
2Pacの人生を辿ったドキュメンタリー映画
彼はこの頃の様子を以下のように話している。
「演劇、バレエ、あらゆるタイプの音楽、
それがオレの人生のサントラになった。
でも俺の友達の高校の連中は演劇を観に行くこともなく、
シェイクスピアが何なのかすら知らなかった。
オレは貴重な体験をしたよ。
オレの学校は白人と裕福な有色人種ばかりだ。
ここに行ってなかったらオレの人生は違ってた。
オレは電気もないゲットーに住んでたんだぜ」
 
2Pacは以前、白人に嫌悪感を抱いていたが
芸術学校で初めて白人と仲良くなり、好感を持つようになっていく。
また、親友、ジェイダ・ピンケット(1997年にウィル・スミスと結婚)
に出会ったのもこの時期だった。
2Pacは彼女のことを「オレの大切な人」「生涯の友人」と話し、
ジェイダも「親友の一人」「兄弟みたいな存在」
「友情を越えた信頼関係があった」と述べている。
 
2Pacが18歳から20歳にかけて書き、死後5年経って発表された詩集
『The Rose That Grew From Concrete/コンクリートに咲いたバラ』
の中に『ジェイダ』と題された詩が収録されている。
その中で2Pacは彼女を「堂々として上品」「黒人女性の手本」と褒め讃え、
「君にはわからないだろうな 
オレがどんなに君のことを想っているか」と綴っていた。
 
この詩集の特徴は、2Pacがノートに書いた詩を
肉筆のままコピーして印刷している事である。
ハートマークや目のマーク、イラストが書き込まれているものもあり、
彼の情熱や繊細なハートが伝わってくる珠玉の作品だ。
2Pacは自分の心に正直であり、
思いや考えを素直に言葉で表現できる能力を持っていた。
 
読んでいてハッとさせられた詩があったので、紹介する。
タイトルは『答えられない質問?』で、
破れたノートの一番下に書かれていた。
 
「質問:地球上に平和が訪れるのはいつか?
 答え:それは地球が粉々になる時さ」
 
それはたった数行の「詩」だったが、深く考えさせられる内容で、
人間の本質をついた鋭い答えだと思った。
争いは地球最期の日まで続くと彼は予言している。
 
1988年、2Pacが17歳の時、
一家は犯罪が多発していたボルティモアを離れ、
カリフォルニア州のマリンシティに転居した。
そこで彼はタマルパイス高校に通い、劇団にも所属。
ところが、家庭環境は最悪だった。
母親が酷いクラック中毒に陥っていたのだ。
 
しかし1989年の春、2Pacはある女性と出会ったことで人生が開けていく。
彼女の名はレイラ・スタインバーグで、
父親はポーランド系の弁護士、母親はメキシコ系の活動家だった。
レイラは1987年、25歳の時、DJの夫と二人の子どもと一緒に
サンフランシスコ・ベイエリアに引っ越してくる。
そこで彼女は「マイクロフォーン・セッションズ」というワークショップを開き、
詩人やミュージシャンを目指す若者たちの支援活動を行っていた。
 
ちょうどその頃、
2Pacはラッパーになる夢を実現するため、
自分をサポートしてくれるマネージャーを探していた。
レイラの夫がDJをしていたクラブで二人は初めて会い、
その時はお互い言葉を交わさなかったが、
翌日、レイラが学校の芝生の上で本を読んでいると、
突然2Pacが現れたのである。
 
二人はすぐに意気投合し、
彼女は2Pacに「週一度、自分の家でやっている
詩を書くサークルに参加しないか」と持ちかけた。
彼は参加初日からサークルに溶け込み、まとめ役になっていく。
 
詩集のタイトルになっている『コンクリートに咲いたバラ』は、
2Pacがこのサークルで書いた初期の作品らしい。
この詩は2Pacを語る上で、なくてはならない資料と言えるだろう。
彼が綴った言葉の一つ一つに深い意味があり、
「宿命」を背負って生まれてきた自分と向き合いながら、
それでも夢や希望を失わず生き続けたいと結んでいるのである。
 
レイラは2Pacの家庭生活が成り立っていない事を心配して、
彼の友人レイ・ラヴと一緒に家へ呼び寄せ、居候させることにした。
この頃2Pacは、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』や、
ジャマイカ・キンケイドの『川底で』、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』、
アイリーン・サザンの『黒人音楽の歴史』、
『カラー・パープル』で
ピューリッツァー賞を受賞したアリス・ウォーカーの作品など
数多くの文学作品を読み、
「人間の本質」や「仏陀」「チベット死者の書」「医学」「キリスト」「天文学」
などに関する分厚い学術書も読んで、レイラと意見を交わしていた。
 
出会いからわずか一か月後、
レイラは2Pacの最初のマネージャーになった。
彼のグループと一緒にコンサートを企画し、
2Pacを売り込むため、ある人物に声をかける。
その人物とはアトロン・グレゴリーで、
メジャー・デビューを目前に控えたヒップホップ・グループ、
「デジタル・アンダーグラウンド」のマネージャーだったのである。
 
 
 
『The Rose that Grew from Concrete/ コンクリートに咲いたバラ』
                          
                      Autobiographical (自伝的な)               
                    
          Written by Tupac Amaru Shakur/トゥパック・アマル・シャクール
 
 
Did you hear about the rose that grew
from a crack in the concrete
 
コンクリートの割れ目に咲いたバラのことを
聞いたことがあるかい
 
Proving nature's law is wrong
it learned to walk with out having feet
 
自然の法則を覆して 
足もないのに歩き出したんだ
 
Funny it seems but by keeping its dreams
it learned to breathe fresh air
 
おかしいよな  でも夢を持ち続けたから
新鮮な空気を吸うことができた
 
Long live the rose that grew from concrete
when no one else ever cared !
 
どうか生き長らえてくれ コンクリートに咲いたバラよ
誰も気にかけてくれなくても!
 
                                     訳:Kaori
 
※原文のままではありません。
「2」→「to」など、一部替えています。
 
 
 
 
<2013・1・26>

2Pac@〜『Dear Mama/ディア・ママ』

2PacB〜光と影の狭間で

2PacC〜獄中からのメッセージ

2PacD〜『Changes』








トゥパック・アマル・シャクール













母:アフェニ・シャクール













父:ビリー・ガーランド













継父、ムトゥル・シャクールとトゥパック














妹、セキワとトゥパック















後見人:ジェロニモ・プラット














親友、ジェイダ・ピンケットとトゥパック














レイラ・スタインバーグ














詩集『コンクリートに咲いたバラ』














母、アフェニとトゥパック