コーネル・デュプリーA〜生い立ちとキャリア


コ−ネル・デュプリーは1942年12月19日、
西部開拓時代の面影を残す街、テキサス州フォートワースで生まれた。
幼い頃から祖父の奏でるフィドル(ヴァイオリン)や
母親のバーニスがピアノで弾くゴスペル、
そしてラジオから流れてくるブルースやR&Bを聴いて育つ。
 
デュプリーが一番最初に憧れて習った楽器はサクソフォーンだった。
しかし13歳の時、ジョニー・"ギター"・ワトソンの
燃えるようなライヴ・パフォーマンスを観て魂を揺さぶられ、
帰宅するやいないや、ギターが欲しいと母親にせがんだ。
 
バーニスは一人息子のために質屋からサンバーストのステラ・ギターを購入し、
コーネルは14歳で念願のギターを手にする。
母親は音楽に情熱を傾けていた息子をバックアップするため、
地元のクラブへコーネルを連れて行き、生演奏を聴かせた。
そこで知り合ったギタリストがコーネルにギターの手ほどきをするようになり
エレキ・ギターが必要になった息子のために
バーニスはデュアルモンドのピックアップが付いた
ホロウボディのハーモニー・ギターとシルバートーンのアンプを買い与えた。
 
コーネルは二人のギター友達とバンドを組み、ドラマーも加わって
地元のタレント・ショーや日曜の午後、アマチュアのために開放していた
いくつかのクラブでブルースやR&Bを演奏して腕を磨いた。
 
この頃デュプリーのアイドルはボビー・ブランドのバック・ギタリストだった
ウェイン・ベネットとスタジオ・ミュージシャンのビリー・バトラーで、
デュプリーはビリー・バトラーが弾いた1956年のヒット曲
『ホンキー・トンク』を熱心に聴き、
ギブソンのレスポール・カスタムを使って念入りにコピーした。
その後レスポール・カスタムは火事にあって焼失し、
代わってTVイエローのレスポール・ジュニアを使用するようになる。
 
まもなくデュプリーはU.P.ウィルソン・バンドに雇われ、
リーダーのウィルソンが彼のレスポール・ジュニアでソロをとっている間、
デュプリーはウィルソンのストラトキャスターでリズム・ギターを担当。
16歳から17歳にかけて、彼はロカビリー・バンドやルイス・ハワードの
ブルース・バンドでも演奏するようになり、
多様なスタイルの音楽に触れるようになる。
 
1959年、デュプリーは17歳でエルマと結婚。
18歳の頃は、すでに地元では名の知れた
ブルース・ギタリストの一人になっていた。
 
1961年は彼のキャリアにとって極めて重要な年になる。
同じフォートワース出身で名サックス奏者の
キング・カーティスがテキサスに立ち寄った時、
ルイス・ハワードのブルース・バンドにいたデュプリーと会ったのだ。
カーティスは若造のくせにブルージー(哀愁を帯びた)なギターを弾く
デュプリーの才能に目を付けて、
「練習を続けろ。そのうち声をかけるからな」と言ってニューヨークに戻った。
 
翌年、カーティスは約束通りコーネル・デュプリーとコンタクトをとり、
受話器ごしに自身のヒット曲『ソウル・ツイスト』や
ジャズ・スタンダードの『ムーンライト・イン・バーモント』を弾かせて
オーディションを行った。
その後カーティスからデュプリーの元にニューヨーク行のチケットが届き、
高校を卒業した数か月後の1962年10月1日、
デュプリー夫妻は二人の幼子を彼の母親に預け、
ニューヨーク・マンハッタンへと旅立った。

到着した翌日、デュプリーはキング・カーティスのバック・バンド
"キングピンズ"の一員としてステージに立ち、
毎週末ハーレムにある有名クラブ、スモール・パラダイスに出演した。
ニューヨークに来た頃、デュプリーはギブソンのレスポールを使っていたが、
程なくしてギルドのスターファイアーを使用するようになる。
キング・カーティスはデュプリーに楽譜の読み方や音楽の聴き方を教え、
音をクリアにするためにギターをあれこれ試すよう薦めた。
 
1962〜66年まで、
デュプリーは毎日のようにキング・カーティスのバックで演奏し、
1963年にはサム・クックのツアーをサポート。
サムの伝説となったハーレム・スクエア・クラブでのライヴ音源を聴けば
いかにキング・カーティスのバンドが重要な役割を果たしたかよくわかる。
 
1965年、デュプリーにとって再び幸運な出会いが訪れる。
アトランティックの辣腕プロデューサー、ジェリー・ウェクスラーが
ハーレムのアポロ・シアターでライヴ録音に参加していた
デュプリーと初めて会い、
彼をアトランティック・レコードに紹介したのだ。
ウェクスラーはその後、ニューヨークやマイアミ、
アラバマ州マッスルショールズでのセッションに彼を起用した。
ジェリー・ウェクスラーは、デュプリーのことを
「リズムを刻みながら同時にリードも弾くことができる
ギタリストに私は初めて出会った。
彼は本当に優れたスタジオ・ミュージシャンだった」と語っている。

同年、キング・カーティスとキングピンズは、
ニューヨークのシェア・スタジアムでビートルズの前座を務める。
 
翌年、デュプリーはカーティスのバックでジミ・ヘンドリックスとも共演した。
夜通しジャムをしたり、共通のアイドルがアルバート・キングだったこともあって
二人は仲良くなったが、ショウマンシップが旺盛だったジミは
いつのまにかソロを弾いてしまい、
デュプリーはリズムのカバーに徹することが多かった。
ジミのギターの音量が大きすぎたこと、時間にルーズだったこと、
衣装が派手になってきたことが原因となり、
ジミは数か月でキング・カーティスのバンドを首になってしまう。
 
まとまったお金を手にしたデュプリーは、
1966年、故郷のフォートワースで家や車を購入し地元でバンドをやるために
キング・カーティスのバンドを離れた。
キングピンズで知り合ったベーシストのチャック・レイニーもバンドを離れたが、
ニューヨークに留まって多くのセッションに参加する。
1968年、レイニーはデュプリーの元を訪れ、ニューヨークに戻るよう説得し、
再びキング・カーティスのバンドに参加する。
 
チャック・レイニーや、後にジャズ・ファンク・バンドの"Stuff/スタッフ"で
共演することになるギタリストのエリック・ゲイルの推薦もあって
デュプリーはニューヨークの様々な音楽シーンで
セッションの仕事を請け負うようになった。
 
1970年はデュプリーにとって大躍進の年となる。
1969年11月にアトランティックのアリフ・マーディンがプロデュースして
ブルック・ベントンが歌った
『Rainy Night in Georgia/雨のジョージア』
のレコーディングで

彼のメランコリーな美しいギターがフューチャーされ、
翌年リリースされるとR&Bチャートで1位、
全米ポップ・チャートで4位まで上りつめ大ヒットした。
その途端、デュプリーの元に仕事を依頼する電話が殺到したそうだ。
 
デュプリーが使用していたギターだが、ビデオで観る限り、
1970年頃は既にフェンダーのテレキャスターを使用していたと思われる。
しかし、ピックガードは外され、
音を太くするためにデュアルモンドのピックアップをセンター部分に増設するなど
高度な改造を施していた。 
 
デュプリーとドン・コヴェイの「Overtime Man」でセッションした
ベーシストのウィル・リーは、
いかにデュプリーが卓越した才能を持ったギタリストだったか、
以下のように回想している。
「あの時コーネルは、全てのテイクにおいて
全く違うニュアンスの
素晴らしいイントロを弾いたんだ。
僕はビックリ仰天して”スゴイね!何でそんなことができるの?”って尋ねたよ。
そうしたら彼は”考えないからだよ”って言ったんだ」
 
1972年、デュプリーはロバータ・フラックのツアーに参加していたが
11月にロバータとジェリー・ジェモットと共にマンハッタンで交通事故に遭い、
数週間入院を余儀なくされる。
1973年1月にロバータのツアーに復帰したが、
思うようにギターが弾けなかったため
4月にはツアーから離脱せざるをえなくなった。
演奏能力に不安はあったものの、
11月に自身初のソロ・アルバムをレコーディング。
1974年にアルバム「Teasin’/ティージン」をリリースした。
 
同じ頃、ベーシストのゴードン・エドワーズが
60年代に結成したセッション・バンドに
デュプリーは度々参加するようになり、
流動的だったメンバーも
70年代半ばになると、
ゴードン・エドワーズ(ベース)、コーネル・デュプリー(ギター)、
エリック・ゲイル(ギター)、リチャード・ティー(キーボード)、
クリス・パーカー(ドラム)もしくはスティーヴ・ガッド(ドラム )に固定され、
マンハッタンのクラブ・ミケールズで定期的にギグを行い人気を博していた。
ある晩ゴードンはデュプリー夫妻と食事をしながら
バンド名について思案していると
デュプリーの妻エルマがこう言ったそうだ。
「ねえ、ゴードン、
あなたはいつもみんなのことを”stuff(素材)”って呼んでるわよね。
私にとってそれは誰でもいいの。
だからバンド名を”Stuff/スタッフ”にするべきよ」
 
同年、ワーナー・ブラザーズからアルバム「Stuff/スタッフ」をリリースして
レコード・デビューをした。
セカンド・アルバムの「More Stuff/モア・スタッフ」(1977年)は
グラミー賞にノミネートされたが、
80年代の前半、メンバーが多忙だったこと、
マネージメントが上手くいかなかったことが原因となり解散する。 
 
1982年頃、デュプリーはウェスト・コーストの音楽シーンを体験したいと思い、
家族と共にロサンゼルスのビバリーヒルズへ引っ越したが、
これといった収穫もなく、数年でニューヨークに戻ってくる。
1985年、ドラムのスティーヴ・ガッドに誘われて
メンバーはデュプリーの他にキーボードのリチャード・ティー、
ビル・エヴァンスの片腕だったベースのエディ・ゴメスで、
後にバリトン・サックスのロニー・キューバが加わった。
デュプリーはガッド・ギャングの他に様々なセッションもこなし、
1988年にリリースされたソロ・アルバム「Coast to Coast」は
グラミー賞にノミネートされる。
 
1990年にフォートワースに帰り、そこで自身のアルバムを制作したり
他のミュージシャンのツアーに参加していたが、
1997年に再びニューヨークに戻って、
その後"The Soul Suvivors/ソウル・サバイバース"
を結成した。
 
デュプリーはサックス奏者の渡辺貞夫とツアーをしたこともあり、
亡くなる前年まで25年間毎年来日していたそうだ。
1970年代の終わり頃、YAMAHAはデュプリーのために
SJシリーズをベースにした3ピックアップのギターを製作し、
”デュプリー・スーパー・ジャム”と名付けられたそのギターを
彼は愛用するようになる。
それを十数年使用したのち、
YAMAHAがパシフィカの
デュプリー・モデルを製作したので
デュプリーはそれを好んで使うようになった。
 
デュプリーが最後に行ったギグは2010年9月26日で、
場所はニューヨークのイリジウム・ジャズ・クラブだった。
ギグが済むとデュプリーは故郷に帰ることを決め、
フォートワースでアルバムの製作にとりかかる。
2011年3月、最後となってしまったソロ・アルバムのレコーディングを
テキサス州オースティンのスタジオで終え、後に容体が悪化。
5月8日、自宅で52年間連れ添った妻エルマに看取られながら息を引き取った。
アルバムは「Doin' Alright」というタイトルで、彼の死後、7月にリリースされる。
 
コーネル・デュプリーはキング・カーティスをはじめ、サム・クック、
アレサ・フランクリン、ダニー・ハサウェイ、ボニーー・レイット、
オーティス・レディング、ジェームス・ブラウン、ジョー・コッカー、
マイルス・ディヴィス、バーブラ・ストライサンド、B.B.キング、
マライア・キャリーなど数多くのビッグ・ネームのバックを務め、
スタジオ・ミュージシャンとして何千ものレコーディング・ワークに参加した。
しかし、妻のエルマによると、
デュプリーにとってワーク(仕事)だったのは
クラブに行くために飛行機や車に乗ることで、
ひとたびステージに立てばそれは彼にとって仕事ではなくなっていたという。

50年にも及ぶ音楽人生において、デュプリーは心の底から音楽を愛し、
素晴らしい才能と情熱はギターに注がれ、それは見事に開花した。
デュプリーの真骨頂は、優れた才能だけでなく、
鋭い洞察力、謙虚な態度、そしてスタジオ・ミュージシャンとして
自らの信条や流儀を貫き通した
彼独特の美学にあったと私は思っている。


★私は長いキャリアの中で幸運にも、ブルース、R&B、ソウル、ロック、ポップなど
様々なジャンルのたくさんの伝説的なパフォーマーと共演する
機会に恵まれました。
彼らはみんなそれぞれ特別な何かを持っており、
私はいつもそれを学び取ろうと努めました。  <コーネル・デュプリー>

 
※上記のデュプリーによるコメントは、コーネル・デュプリーが著した
「リズム&ブルース・ギター」(2000年)から引用したものです。
この本はCDと楽譜が付いたデュプリーによる教則本ですが、
名だたるアーティストとの回想録も掲載されています。
それを読むと、デュプリーがいかに繊細で冷静かつ温和な性格だったか
よくわかります。
彼は音楽だけでなく、人間を観察する能力に長けていたと思います。
それはジミヘンに対する回顧録を読んだ時に強く思いました。


<2012.5.7>
 
 








キング・カーティスとコーネル・デュプリー



























コーネル・デュプリー





























初のソロ・アルバム「ティージン」(1974年)



























Stuffのメンバー

左からゴードン・エドワーズ、エリック・ゲイル、コーネル・デュプリー、
リチャード・ティー、クリス・パーカー、スティーヴ・ガッド