ダニー・ハサウェイB〜生い立ちとキャリア


Donny Edward Hathaway/ダニー・エドワード・ハサウェイは
1945年10月1日、イリノイ州シカゴで生まれ、
幼少期から祖母のマーサ・ピッツと共に
ミズーリ州セントルイスに住んでいた。
 
ピッツはマーサ・クラムウェルという名で知られたプロのゴスペル歌手で、
ダニーは幼い頃から教会に入り浸って、
祖母のリハーサルやパーフォーマンスを観て過ごす。
ダニーの母、ドゥルーセラ・ハントリーは
以下のような思い出をエボニー誌に語った。
 
「ダニーがまだ3歳だったある日のこと、
教会で私の隣に座っていたあの子は
いつもより落ち着きがなくそわそわし始めたので、
"どうしたの?"って尋ねたの。
そうしたらダニーは、
"壇上に行っておばあちゃんと一緒に歌いたい"って答えたから
私は"いいわよ"って言ったわ。
ダニーが初めて歌った曲は"How Much I Owe, Love Divine"でした。
言葉を正確に発音できたわけじゃなかったけど、
ちゃんとメロディに合わせて歌っていたわ」
 
ダニーの評判はすぐに広がり、
"国内最年少のゴスペル歌手、ダニー・ピッツ"として
ステージでウクレレを弾きながら歌うようになる。
6歳の頃からピアノと音楽理論を学び始め、
高校時代はピアノの名手として名を馳せた。
1964年、ワシントンD.C.にある黒人大学の
名門ハワード大学に奨学生として入学。
専攻した音楽で教授から才能を認められ多大なる賞賛を受ける。
 
そこでダニーは将来の妻、ウララと出会う。
後にデュエットを組むことになるロバータ・フラックもハワード大学の卒業生だ。
彼は生活費を稼ぐため、同級生のリック(ドラマー)と
「リック・ パウエル・トリオ」というジャズ・バンドを組み、D.C.周辺で活動した。
リック・パウエルはダニーのファースト・アルバム
「Everything Is Evrything」のライナー・ノーツを書いており、
その中で、自分が
才能を持った最高にイケてる天才、
ダニー・ハサウェイと一緒に過ごせたことは
本当に素晴らしい経験だったと語っている。
ダニーは音楽の仕事をたくさん請負うようになったため、
周囲からの勧めもあって、1967年に大学を中退し、プロに転向した。
 
まず手始めに、彼はシカゴにあるレコード会社で
ソング・ライター、セッション・ミュージシャン、プロデューサーとして仕事をし、
その後アレサ・フランクリンやステイプル・シンガーズ、
カーティス・メイフィールドといった大物アーティストとプロジェクトを組んで
プロデュースやアレンジを手掛ける。
他にチェスやスタックス・レコードの
アーティストたちのプロデュースも行い、
レコード産業で早くから実績を作った。
 
1969年、ダニーはカーティス・メイフィールドに誘われて
彼のレーベル、カートム・レコードのプロデューサーとなり
女性歌手ジューン・コンケストとデュエットして
シングル『I Thank You Baby/Just Another Reason』
をレコーディング。(リリースは1972年)
そしてついにその年、
アトランティック・レコード専属の偉大なサックス奏者、
キング・カーティスに認められ、
彼の紹介でダニーはアトランティックと契約。
1970年1月にファースト・シングル
『The Ghetto,Part1/ザ・ゲットー・パート1』を
サブ・レーベルのアトコ・レコードからリリースする。
翌年1月のR&Bチャートで23位になった。
 
この曲は、
目を背けたくなるほど悲惨なゲットーの様子を描いた作品だった為、
ダニーはまたたくまに、ゴスペルに深い造詣を持つ
才能あふれるシンガー・ソング・ライターとして評価された。
後にローリング・ストーン誌はダニー・ハサウェイが亡くなった時
デビュー曲に言及し、
「ソウル・ミュージックを牽引する期待の新星として彼を知らしめた曲」
と書き記している。
 
1970年にはファースト・アルバム
「Everything Is Evrything/新しきソウルの光と道」がリリースされ
続くセカンド・アルバム
「Donny Hathaway/ダニー・ハサウェイ」(1971年)も絶賛を浴びたが、
彼の名が一躍ポップ・チャートで知られるきかっけを作ったのが
1972年4月にロバータ・フラックとデュエットしてリリースした
シングル『Where Is The Love/恋人は何処に』である。
 
この曲はR&B部門で1位になっただけでなく、
ポップス部門でも5位にランクインし、
グラミー賞の最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞をデュオで受賞。
このシングルと翌月リリースされた彼らのアルバム
「Roberta Flack and Donny Hathaway」は
百万枚の売り上げを記録し、ゴールド・ディスクに輝いた。
彼らが1971年に初めてコラボを組んでリリースした
シングル『You've Got A Friend/きみの友達』(キャロル・キング作)や
アレサ・フランクリンが歌ってヒットした
『Baby I Love You/ベイビー・アイ・ラヴ・ユー』のカヴァーも
このアルバムに収められている。
 
あの伝説となったサード・アルバム「Live」や
彼が作曲と音楽監督を務めた映画
「Come Bcak Charleston Blue/ハーレム愚連隊」の
サントラ盤がリリースされたのも1972年である。
成功に彩られたこの年の翌年リリースされたアルバム
「Extension Of a Man/愛と自由を求めて」(1973)が
彼の作った最後のアルバムになるなんて、
誰が想像できたであろうか?
 
ラスト・アルバムとなってしまったオリジナル・ライナー・ノーツは、
詩人で作家のヨーランド"ニッキ"ジョヴァンニと
ダニー・ハサウェイ自身によって書かれており、
彼はその冒頭で以下のような思いを綴っている。
 
「僕はこのアルバムを"Extension Of a Man"
(直訳すると"一人の人間の広がり"だが、
ここでは"私の音楽性の広がり"といった意味だろう)
と呼ぶことにしました。
なぜなら僕は発展の途上にいて
自分のスタイルをあれこれ試しているからです。
僕は音楽を愛しています。
ですから可能な限り多くのスタイルで録音してみます。
それではアルバムの解説にうつりましょう。
 
僕が子どもだった頃、
教会で黒人がゴスペルを歌うのをよく聴いたものです。
それらはアイザック・ワッツ博士によって書かれたもので、
当時彼はゴスペルに新しい要素を取り入れた革新派の一人でした。
ゴスペルにはたくさんの様式があります。
聖歌隊の指導者によれば、
それらは音階がメジャーもしくはマイナーであろうと、
ペンタトニック・スケール(五音音階)が基本になっているようです。
 
例えば中西部から南部において(アラバマやルイジアナなど)
マイナー音階は人生における苦しみや不安を表現することに
たびたび使われました。
できれば僕はサウンドが喜びであふれる
メジャー音階をゴスペルや歌に使いたいです・・・・」
 
上記のような見解を述べた後、
収録曲について個々に説明が始まる。
最初の曲『I Love The Load,He Heard My Cry(Parts1&2)/
神がわが声をきき給う』の解説は緻密で専門的だ。
彼は作曲技法に関して、1800年代終わりから1900年代初頭に活躍した
フランスの作曲家エリック・サティ("音楽界の異端児"と呼ばれ
教会の旋法を作曲に導入して西洋音楽に革新的な技法を取り入れる)や
印象派のドビュッシーやラヴェル、
そしてアメリカのクラシック界とポピュラー界の両方で活躍した
ジョージ・ガーシュウィンに影響を受けたと語っている。
 
二曲目は私がこのアルバムの中で一番好きな曲
『Someday We'll All Be Free/いつか自由に』である。
「我々はいつかみんな自由になる。
だから自尊心と希望を持って生きていこう」といった内容の歌詞で、
メロディがとても美しい珠玉の作品だが、
ダニーは「スタンダード」になりうる曲としか説明していない。
妙にそっけないと思われるかもしれないが、
音楽用語の「スタンダード」は
「多くの人に親しまれて様々なアーティストにカヴァーされる定番曲」
という意味を持っている。
つまりダニーは、自分や同胞の想いがたくさんつまったこの曲が
世界中の人々に愛されて歌い継がれて欲しいと願ったのだ。
この曲はスパイク・リー監督の映画「マルコムX」のエンディングでも使われた。
1993年にA. Scott Gallowayが書いたこのアルバムのライナー・ノーツに
『Someday We'll All Be Free』を作詞したエドワード・ハワードの
談話が載っていたのでここで紹介したい。
 
「それは僕にとってスピリテュアルな出来事でした。
ダニーがニューヨークのロチェスターで行ったコンサートの
ステージ裏で、あるメロディを弾きました。
そして彼はこの曲に詩をつけてほしいと私に頼んだのです。
私はメロディをテープに録音してシカゴに持ち帰り
それに合わせて一度は作詞を試みましたが途中で放り出し、
そのまま忘れていました。
 
ところがある日シャワーを浴びていたら、
何かが僕を滑らせバランスを崩したので
咄嗟にノズルを掴みました。
その瞬間にこの曲の出だしが頭に浮かんだのです。
"その世界にしがみつくんだ"
私はすぐにシャワーを止めて身体を拭きピアノの前に座りました。
古くて茶色いボールドウィンのアップライト・ピアノです。
1時間半ぐらいで私は詩を書き終えました。
 
その時私の心を過ぎったのはダニーのことです。
彼は病いにとても苦しめられていましたから。
私は彼が経験している諸々の苦しみから
少しは解放されるだろうと期待したのです。
私ができることは何もありませんでしたが、
詩を書くことで彼を励ますことができると思いました。
 
多くの黒人がこの曲をテーマ・ソングのひとつだと思ってくれてます。
それはありがたいことです。
ただし、私はそのような目的で書いたわけではありませんでした。
私にとってはとるに足りない曲ですが、
皆さんから大切に思われているのは嬉しいですね」
 
私はこの曲にまつわる作者のエピソードを読んで、
そんなにダニーの病気は重かったのかとあらためて思った。
彼を気遣うエドワードの想いが曲の中に込められていたのだ。
ダニーはハワード大学で知り合ったウララ(オペラ歌手)と結婚し、
二人の娘、レイラ(1968年生まれ)とケニヤ(1970年生まれ)を授かり、
アーティストとしても順風満帆だと思われていたが、
実はキャリアの絶頂期に深刻なうつ状態に陥り始めたのだ。
 
彼の名声は不安と苦悩に取って代わり、
病気をコントールするために、毎日たくさんの薬を飲まなければならず
生活は徐々に破壊され、入院を余儀なくされた。
「Extension Of a Man」をリリースした後、
彼の気力は衰え、人前から姿を消す。
裏方に徹しようと考え、制作会社を設立したのもこの時期だった。
 
ダニーのうつ病はロバータ・フラックとの友情にもひびを入れ、
彼らはしばらく連絡をとっていなかったが、
1977年、ロバータが懸命に彼を説得してデュオを再開。
二人はスタジオに戻って
『The Closer I Get To You/私の気持ち』をレコーディングする。
この曲はロバータ・フラックのアルバム
「Blue Lights in the Bassment」に収められ、その年の12月にリリース。
翌年の2月にはシングル・カットされ、ポップ・チャートで2位まで昇りつめた。
この曲は彼らにとって最大のヒット曲となり、
百万枚を売り上げてゴールド・ディスクに輝く。
すぐに二人は2枚目のデュエット・アルバムの制作にとりかかった。
 
しかし、アルバム制作中の1979年1月13日、
ダニー・ハサウェイが滞在先のニューヨーク・エセックス・ハウス
近くの歩道で死んでいるのが見つかった。
ちょうどそこは彼が泊った15階の部屋の真下だった。
部屋の鍵は中から施錠されたままで、誰かと争った様子もなく
ガラスが窓枠からきれいに外され、ベッドの上に置かれていたらしい。
ダニーは15階の窓から飛び降りて自殺してしまったのだ。
 
彼のキャリアが再び上向きになった矢先の出来事だったので
友人たちは大きな衝撃を受け、
ロバータ・フラックはしばらくショックから立ち直れなかった。
その日、ダニーと彼のマネージャーはニューヨーク・シティにある
ロバータのアパートに行って夕食を共にし、
その後彼はホテルの部屋に戻ったという。
彼らはその時ダニーに全く異変を感じなかったそうだ。
アルバムの完成を待たずして、
彼は33歳という若さでで天国に旅立ってしまった。
 
二人が取り組んでいたアルバムは、ダニーが亡くなった翌年に
「Roberta Flack Featuring Donny Hathaway/
ロバータ・フラック・フィーチャリング・ダニー・ハサウェイ」という
タイトルでリリースされた。
ただし、ダニーがロバータとデュエットしているのは7曲中
『You Are My Heaven/ユー・アー・マイ・ヘヴン』と
『Back Together Again/バック・トゥギャザー・アゲイン』の2曲だけである。
このアルバムはロバータのダニーに対する鎮魂歌となった。
 
 
<2010・12・18>







Donny Hathaway/ダニー・ハサウェイ  

















「Everything is Everything/新しきソウルの光と道」(1970)























King Curtis/キング・カーティス







































「ロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイ」(1972)


























「Extension Of a Man/愛と自由を求めて」(1973)

























ロバータ・フラック・フィーチャリング・ダニー・ハサウェイ」