マーヴィン・ゲイE〜生い立ち


私がアーティストの生まれ育った環境に興味を持つようになったのは
ここ数年である。
学生時代は今以上にあらゆるタイプの音楽を聴いたりコピーしていたが、
パフォーマーのバック・グラウンドにまでは関心が及ばなかった。
しかし子育てを経験したことで、彼らの生育歴や両親の性格、
ひいては教育方針にまで興味の対象が広がるようになったのである。
偉大な音楽を作り出すのはアーティストの才能だけではない。
どのようなタイプの親に育てられ、
幼少期から思春期にかけてどのような体験をしたかが重要になってくる。
せっかく優れた才能を持っていても、
親や環境がそれを潰してしまうこともある。
それは音楽の世界に限定されるものではなく、
全ての人間にあてはまること。

シャロン・ディヴィスが著したマーヴィン・ゲイの伝記
「I Heard It Through The Grapevine/悲しいうわさ」(キネマ旬報社刊)を読んだ時も
彼の生い立ちが人格形成や音楽性に与えた影響は
計り知れないものだったと痛感した。
幼年期の頃始まった父親からの執拗な虐待は、
その後マーヴィンの人生に暗い影を落とし、彼の生命まで奪ってしまう。
もし父親が人格的に優れていたならば、
莫大な借金を抱えたりドラッグに溺れることもなかっただろう。
しかし、マーヴィンにしか出せない
あの芸術的とも言える苦悩に満ちた感情表現は、
父親との確執なくしては生み出されなかったかもしれない。
苦しみと引き換えに芸術が生まれるのだろうか。
マーヴィンは不幸な生い立ちを抱えながらも、
アーティストとして神から与えられた人生を精一杯生きたと私は思っている。

マーヴィン・ゲイの本名はマーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニア。
彼は1939年4月2日、ペンテコステ派の熱心な説教師である父、
マーヴィン・ゲイ・シニアと母アルバータの長男としてワシントンDCで生を受ける。
マーヴィンは17歳になるまで両親、姉のジーンやジオラ、
弟のフランキーと共にワシントンのスラム街で暮らした。
宗教的な育ち方と父親との不和、スラムの環境のせいで
「普通の」子供時代を楽しむことはできなかったとマーヴィンは回想する。
子供達は、教会で決められた礼拝集会や断食、
清めなどの規則を厳格に守らなければならず、
日曜日はひたすら祈りと福音書の朗読に費やされた。
父親の絶対的権力が家族を支配していたのである。

3歳の頃から教会で歌わされたマーヴィンだが、
父親は彼の才能をすぐ見抜いた。
「私はよく伝道活動に歩いたが、
時々マーヴィンを連れて行くこともあった。
私は、彼が人の心に訴えるように歌えること、
独特なスタイルを持っていることに気付いた。
そのうちマーヴィンを連れていくと必ず歌を要求されるようになった。
彼は聖書をあっという間に覚え、まだほんの子供なのに、
時にはまるで大人のような、牧師のようなしゃべり方をした。」

ペンテコステ派の集会の特徴に
「スピーキング・イン・タング」というのがある。
これはある種の宗教的興奮から、意味不明な言葉を唱えたりすることで、
マーヴィンはそのような狂信的な礼拝を幼児期から目の当たりにしてきている。
彼はその時の様子を以下のように語った。

「(ペンテコステ派は)十二使徒伝承の心霊的な宗派だが、
非常に社会的で根源的で現世的な心霊主義だった。
スピーキング・イン・タングをしたり、叫んだり、
タンバリンをたたいたり、タリーイングしたりするんだ。
タリーイングというのは、イエスの名前を呼んで、神が信じるものを信じ、
それを何度も何度も口に出して言っているうちに、
一種の神がかり的な恍惚状態になることだ。
極度の霊的状態に入っているのに、
本人はそれに気付いてさえいないことが多かった。
ちょっとすごい光景だよ。」

これは体験したものにしかわからない境地だろう。
こうした凄まじい宗教体験はマーヴィンだけでなく、
多くの黒人アーティストが経験している。
彼らの歌やパフォーマンスに滲み出るソウルフルなフィーリングは
教会での神秘的な体験が基盤になっていることが多い。
マーヴィンは、
黒人が神がかった霊的状態にすぐ入れるのは民族的なものであり、
自分は黒人であることに誇りを持っていると述べた。

幼いマーヴィンは父親の説教を聞いた会衆の精神が
異様な昂ぶりを見せることに驚き、
父親のカリスマ性に畏敬の念を抱くようになる。
そして彼は神霊の存在を信じ、
神につながりたいという強い信仰心を持つようになっていくのだ。

しかし安定した生活は長く続かなかった。
アルバータが恐れていた夫の暴力が頭をもたげ始め、
怒りの矛先は幼いマーヴィンに向けられた。
なぜならマーヴィンは物事に対して自分なりの意見を持っていたため、
不条理な父親の態度に強く反発したからだ。
そのため頻繁に体罰を受けたと告白している。

「12歳になる頃には、身体中ぶたれて、
あざになっていないところはなかったよ。
だがおやじはもっとひどいこともした。
彼は頭のいい男だろう。
人に苦痛を与えることに興味を持つと、
そのプロセスを長びかせれば
それだけ面白くなるということがわかっていたんだ。
よく、『ぼうず、鞭だぞ』と言った。
それから服を脱ぐように言って、
フランキーと僕が使っていた寝室に行かせるんだ・・・
その場ですぐぶってくれたらあれほど怖くなかったと思う・・・
それが1時間、時にはそれ以上も待たせるんだ。
その間じゅう、
僕に聞こえるようにべルトのバックルをじゃらじゃらと鳴らしてるんだよ。」

マーヴィンは真面目で行儀が良く、もの静かだったが、
父親からの残酷極まる虐待によって自信を喪失し、
孤独で情緒不安定な青年となっていく。
アルバータは子供達を守るために離婚を思い留まり、
教会でのいざこざが原因で働く意欲を失った夫に代わって
身を粉にして働き、家事や育児を切り盛りした。

家庭では父親からの虐待、
外の世界では矛盾だらけの人種隔離政策が彼を待ちうけており、
マーヴィンの心には絶えず恐怖と怒りの感情が渦を巻いていた。
現在のアメリカにおいてでさえ人種差別は存在する。
今なおゲットーは至るところにあり、
黒人だからという理由で
屈辱的な扱いを受けることがたくさんあるらしい。

中学にあがった頃マーヴィンは、
逞しい肉体が必要とされるボクシングに夢中になる。
しかし父親が「お前の身体では無理だ」と反対したため、
ボクシングを断念。
水泳や陸上、フット・ボールの練習に参加し、
プロのスポーツ選手になることを夢見てトレーニングに励んだ。
また、彼は自然に対しても大きな興味を抱き、
虫や鳥と遊ぶことに喜びを感じる少年でもあった。

高校に入った頃から音楽に対して積極的に関わるようになり、
ドラムやピアノ、ギターを次々とマスターする。
この頃すでにマーヴィンの歌唱力はかなりの評判になっていた。
彼はジェイムズ・ブラウンやジャッキー・ウィルソンのステージを
ハワード・シアターに見に行きパフォーマンスを勉強。
音楽の道に進もうと考えて17歳でハイ・スクールを中退する。

だが、父親は仕事をするか軍隊に入るかのどちらかにしろと
マーヴィンに詰め寄り、彼は軍隊に入ることを選択してアメリカ空軍に入隊。
ところが彼は軍隊の生活に馴染めず1年程で除隊させられた。
その後ドゥワップ・グループ、マーキーズに参加したが
グループに将来はないと直感しマーキーズを脱退。
ハーヴェイ・フークア&ザ・ムーングロウズに加入する。
フークアはマーヴィンより11歳年上で
人柄も良く信頼のおける人物だったため、
彼はフークアを父親のように慕い尊敬した。

1960年、ムーングロウズの解散に伴い、
マーヴィンはハーヴェイ・フークアと一緒にデトロイトに行き
そこでソング・ライター兼音楽プロデューサーの
ベリー・ゴーディ・ジュニアと出会うのである。
1961年、ベリー・ゴーディが自身のレーベル「モータウン」を設立。
マーヴィンはシンガーとして会社と契約を結んだ。
この頃からマーヴィンは自分の苗字「Gay/ゲイ」の後ろに
「e」を加えて「Marvin Gaye」と表記するようになった。
彼の憧れだったシンガー
「Sam Cooke/サム・クック」の名前にあやかったと言われているが、
実際には「Gay」の意味から逃れたかったらしい。

マーヴィンはゴーディと出会った頃、
彼の美しい姉アンナと知り合い、恋に落ちる。
同時に彼の気品あふれる物腰とシャイな雰囲気、
甘い声はモータウンにいた多くの女性を魅了した。
アンナはマーヴィンの才能が開花するようにひたすら彼の音楽センスを褒め、
自信を与えて励まし続けた。
1962年、アンナの努力が実を結び、
シングル『Stubborn Kind Of Fellow/スタボーン・カインド・オブ・フェロー』
がチャート入りを果たす。
ゴーディはヒットに乗じてマーヴィンを南部のツアーに送り出したが、
彼は長く過酷なツアーの中でひどい差別と偏見を体験する。

ダンサブルな『Hitch Hike/ヒッチ・ハイク』、
アンナに捧げた『Pride And Joy/プライド・アンド・ジョイ』が次々にヒットし、
1963年に二人は結婚。マーヴィンは24歳、アンナは41歳だった。
そして1965年の『How Sweet It Is (To Be Loved By You)/
ハウ・スイート・イット・イズ』の大ヒットで、
マーヴィン・ゲイはシュープリームス、テンプテーションズ、
スティーヴィー・ワンダーと並ぶモータウンのスターとして
特別な待遇を受けるようになる。
同じ年にリリースされたアルバム「ナット・キング・コールに捧ぐ」では
美しく透き通るような歌声をリスナーに知らしめた。
そして、人気番組「エド・サリバン・ショー」にも出演。
1967年には運命のデュエット・パートナー、タミ−・テレルと出会って、
再びヒット曲を連発。
1968年10月に出されたソロ・シングル
『I Heard It Through The Grapevine/悲しいうわさ 』は、
モータウン始まって以来のミリオン・セラーとなり、
ついにマーヴィンは輝かしい名声と確固たる地位を手に入れる。

しかし、いくら売れてもマーヴィンの心は満たされなかった。
マーヴィン・ゲイのアーティストとしてのキャリアは20余年だが、
彼はその間、途切れることなくヒットを出し続けて
レコード会社に貢献しなければならなかったのである。
そのため数多くのツアーが企画され、ステージにひとたび上がれば
教祖のようなオーラを出して人心を掌握することが要求された。
マーヴィンの場合、歌で人を惹きつけることができても
性格は内気で自分の才能に自信が持てなかったため、
人前で歌うことにためらいを感じていた。
特にタミー・テレルを病気で失ってからは過度のステージ恐怖症になり、
ショウの直前に出演を拒否したり、
トイレの窓から逃げ出そうしたこともあったらしい。
彼は精神的プレッシャーから逃れ、
大観衆の前でパフォーマンスができるよう、
マリファナやコカインを常習するようになる。
幼い時に受けた心の傷は生涯彼の人生につきまとい、
悪習を絶つ勇気と現実を直視して前向きに生きようとする活力を
彼から奪いとってしまったのだ。


★父親と暮らすというのは、王様と暮らすようなものさ。
非常に変わった、気分の変わりやすい、残忍な全能の王とね。
顔色をうかがってびくびく暮らさなければならない。
あらゆることをして、ご機嫌をとらなくちゃならないんだ。
僕は決してしなかったけどね。
父親の愛情を得ることが僕の子供時代の究極の目標だったとしても、
僕は反抗した。彼のやり方が嫌いだった。
僕は歌うことで父の愛情を勝ち取れると思った。
だから、心の底から歌ったよ。
だが、上手くなればなるほど、彼の要求は大きくなった。
<マーヴィン・ゲイ>

★夫はマーヴィンを欲しいと思ったことは一度もなかったんです。
あの子をずっと嫌ってました。
本当はおれの子じゃないんじゃないかといつも言ってました。
ばかなことを言うんじゃないわよ、と言ってやりましたけど。
マーヴィンが自分の子供だというのはわかっていたんです。
でも、なぜかマーヴィンを愛さなかった。
もっと悪いことは、私がマーヴィンを愛するのもいやがったんです。
マーヴィンは小さい時に、もうこのことをわかっていました。
<アルバータ・ゲイ>

<06・8・9>