マーヴィン・ゲイC〜「マーヴィン・ゲイの真実」


「Marvin Gaye〜Behind The Legend」というタイトルはとても意味深だ。
邦題は「マーヴィン・ゲイの真実」。
このDVDは2003年3月に発売され、
本編のドキュメンタリー60分と20分のライヴ映像で構成されている。
スーパースターの裏側に隠されている真実とはいったい何なのか?
そんな思いに駆られながら彼の後半生を綴った映像を見た。
出演者の大半はマーヴィンと私生活を共にした家族や音楽仲間で、
ライヴ映像の他、貴重なプライベート写真もいくつか登場する。

インタビューを受けたミュージシャンたちは皆、
マーヴィンの唯一無二の音楽的才能を心から賞賛していた。
マーヴィン・ゲイの歌を聴けば、様々な感情を表出させる驚くべき声と
素晴らしい歌の才能、繊細かつ巧みな表現力に気が付くはずだ。
彼の人柄に関して、
ツアー・コンパニオンのデイヴ・シモンズが以下のようなコメントをしている。
「まるで王族のようだった。
私が出会った人達の中では誰よりも気品がある。
独特の雰囲気が、カリスマ性があるんだ。
誰もが自然に彼を尊敬してしまう。」

しかし、輝かしい才能とは裏腹に彼は多くのトラブルを抱えていた。
それらは「麻薬」「女性問題」「借金」など多方面に渡っている。

マーヴィンの二人の妻が彼について語るシーンは印象的だ。
最初の妻アンナは兄がモータウンの社長で、
17歳という年齢差を乗り越え、1963年に24歳のマーヴィンと結婚する。
このドキュメンタリーのためにアンナがインタビューを受けた時、
彼女は78歳に達していたと思われるが、顔の表情は明るく、
真っ赤な口紅が彼女の人生を象徴しているかのようだった。
アンナの落ち着いた眼差しには
多くの男性を魅了したと思われる輝きが少なからず残っていて、
彼女のとなりで手を取りながら見守る養子、マーヴィン・ゲイ・3世とは
強い絆で結ばれていることは明らかだった。

アンナは「マーヴィンはとてもハンサムで性格も良くて素晴らしい夫だった。
才能もあったわ。」とにこやかに回想するが、
マーヴィンの女性問題に対しては、
「フリーエージェントのようなものよ。
他人の気持ちなど関係なく好きな事をするの。
私は彼に楽しく暮らして欲しかった。
魅力を生かして楽しむべきだ。」と矛盾ともとれる発言をする。

私は現在アンナがマーヴィンと結婚した時の年齢に近い。
人生をそれなりに経験しているから、
もしも17歳年下の夫が他の若い女性に目移りしても
致し方ないことだと素直に思えるだろう。
ましてや相手が女性を虜にするマーヴィン・ゲイだとしたらなおさらである。
アンナは結婚生活が永遠に続き、マーヴィンは一途に
自分のことだけを愛し続けてくれると本気で思っていたのだろうか。

だが、マーヴィンが10代の可憐な女性に夢中になり、
程なく同棲して子供まで作ってしまったいう事実に
アンナの女性としてのプライドがひどく傷つけられたことは確かだ。
愛がとてつもない憎しみに変わることは男女の間では常に起こりうる。

アンナは1975年に離婚裁判を起こし、
マーヴィンに対して100万ドルという破格の慰謝料を請求したが、
彼にその支払い能力がなかったため
次のアルバムによって見込まれる収益金、
約60万ドルをアンナに支払うという約束でようやく2年後に離婚が成立。
そのアルバムとは、1978年にリリースされた
「Hear, My Dear/離婚伝説」のことである。
マーヴィンはこのアルバムでアンナとの愛の変遷や
ジャニスとの出会いを赤裸々に告白した。

二番目の妻、ジャニス・ハンターはアンナとは対照的で
化粧っ気もなく服装も地味だったが、
マーヴィンが彼女の美しさと内面的な奥深さに惹かれたことは一目瞭然だった。
1973年、ジャニスが母親に連れられてマーヴィンがいるスタジオに遊びに来た時、
二人は互いに一目惚れをして恋に落ちたらしい。
当時ジャニスは16歳でマーヴィンは33歳。
妻アンナとの関係を清算する前にマーヴィンはジャニスと同棲し、
ジャニスは74年9月に娘のノーナを、翌年11月に息子のフランキーを出産する。
マーヴィンは74年のライヴで、ジャニスに捧げたラヴ・ソング『Jan/ジャン』を
大観衆の面前で披露してしまうという失態も堂々とやってのけた。
しかし、唯一の宝物だったジャニスとの関係も結局は上手くいかなくなり、
後に結婚はしたものの離婚という形で二人の関係は終止符を打つ。

その大きな原因となったものがマーヴィンの麻薬常習である。
これこそが彼の家族を崩壊させ、
キャリアを一気に終局へと向かわせた恐るべき正体なのだ。
ジャニスは憂鬱な面持ちで振りかえる。
「あれが最後のツアーだった。その頃彼は病気で妄想もひどく
コカインを最も多く使っていた時期で私も一緒に使っていた。
リハビリを受けたけれど彼には効かなかったの。」

マーヴィンの心はガラス細工のように脆く、精神的にも不安定で
音楽をビジネスとして捉える事が苦手だったようだ。
ストレスからくるツアーのドタキャンも数多くあり、
そのために人間関係もこじれていく。
こうした彼の苦悩を一時的に忘れさせてくれたものが
女性とのセックスであり、麻薬への依存だった。
彼はアーティストである自分を客観視していたにもかかわらず、
なぜか逼迫した問題を積極的に解決しようとはしなかった。
私には、彼はひたすら心の自由を追求し、流れに身を任せ、
まるで芸術とはかくあるものという確固たるポリシーを持って
生活しているように感じられた。

1981年頃、マーヴィンはため息が出る程多くの問題を抱えて
ロンドンに滞在していたが、
幸運にもマーヴィンの音楽ファンで、ヨーロッパの実業家
フレディ・クルサートが彼の援助を申し出る。
クルサートの計らいでマーヴィンはベルギーの静かな町オステンドに移り、
そこで癒しを得た。

彼がゆっくりと町を歩きながら笑顔で住人に声をかけるシーンがある。
黒のコートを着て煙草をふかすその姿はハッとする程素敵で、
穏やかな雰囲気が漂っている。
ここで私は初めてマーヴィンの話し声を聞いたわけだが、
彼の声はゆったりとして語気が弱く、まるで少年のようにナイーヴだった。
マーヴィンはクルサートの掛け値ない心遣いのお蔭で
堕落していた生活習慣を改め、
バスケットやボクシング、ジョギングをしたりして心と身体を鍛えていく。

マーヴィンが直面していた問題は
その全てが複雑で解決不能と断言できるものであったため、
映像を観ていた私の心はともすれば暗く沈みがちになった。
しかし彼がオステンドに滞在中、ラフな格好でピアノの前に座り、
『Come Get To This/カム・ゲット・トゥー・ジス』を弾き語りし始めた時、
それらは一掃されたのである。
リズムにのりながらアドリブ感覚でジャジーに歌う彼の姿を見て
「どんな問題を抱えていようと、彼の才能は不滅で燦燦と輝いている」
と確信したのだ。

マーヴィンは異国の地で仲間のミュージシャンの協力を得て
新しいアルバムのコンセプトを練り、
それは「Midnight Love/ミッドナイト・ラヴ」として結実する。
その中の収録曲で先にシングル・カットされた
『Sexual Healing/セクシャル・ヒーリング』は
彼が長年テーマにしてきた性愛に対する一つの答えでもあった。
一緒にマスター・トラックを作ったミュージシャンのオーデル・ブラウンは
この曲に対して以下のようなコメントをしている。
「彼は牧師の息子だから精神的な観点で人生を捉えていた。
セックスは生命の繁栄と維持のために神が与えたと考え、
それについて二人で何度も話し合った。
彼は大きな関心を持っていた。そのような話題に。
だから最初『セクシャル・ヒーリング』を聴いた時、
ついに彼は答えを見つけたと思ったよ。」

古巣のモータウンを離れCBSに移籍したマーヴィンは
1982年10月、シングル『セクシャル・ヒーリング』をリリース。
翌月にはアルバム「ミッドナイト・ラヴ」も発売される。
『セクシャル・ヒーリング』は爆発的な売れ行きを上げ、
10週にわたりアメリカのR&Bチャートのトップを飾った。
そしてとうとう1983年2月、彼は2部門で念願のグラミー賞を獲得する。
それは彼にとって最後の晴れ舞台となった。
受賞に際し、彼は満面の笑顔を浮かべてスピーチをする。
「27年も受賞の瞬間を待っていました。こんな賞をもらう日を。
感謝しています。私の家族と友人と会場に来ている子供たち。
ちょっと立って!パパにハローと言ってくれる?
そこにいたか!ママ愛しているよ。神に感謝しています。
ずっとそばにいて下さい。」

マーヴィンは最期の日々、コカインによる妄想の中で聖書を広げ、
繰り返しある詩篇を読んでいたことがデイヴ・シモンズの証言でわかる。
麻薬に溺れるマーヴィンの身体を心配するデイヴ
彼は聖書を開いて、ここが説得力のある言葉だと言いながら読み始めた。
「『一万人の天使が周りにおられ、傷つかないように守ってくれる』
その言葉を信じているから傷つかないんだ。大丈夫だ・・・」

彼は受賞後アメリカ・ツアーを敢行したが、
コカインへの依存はますます強くなり、生命の危機に晒されていた。
ツアー終了後、彼はロスにある両親の家に身を寄せ、
そしてついに悲劇が起こる。
1984年4月1日、45歳の誕生日を翌日に控えたその日、
マーヴィンは父親と口論になり、怒った父親は咄嗟に銃を持ち出し
息子の胸をめがけて至近距離から発砲したのだった。
マーヴィンが救急車に担ぎ込まれた時、息はすでに絶えていた・・・。

いったい何故、こんなにも酷い結末を迎えなければならなかったのか。
実の父親に射殺されるという悲劇をマーヴィンは予感していたのだろうか。
DVDの本編では彼の生い立ちについて、全く触れられていなかった。
ライナー・ノーツには、
幼い頃から父親との間に大きな確執があったと書かれていたので、
こうした悲劇が現実として起こりうる可能性は充分にあったと言える。
それはいったいどのような確執だったのだろうか。
何故、彼は麻薬に溺れなければならなかったのか。
様々なトラブルに見舞われ、それを深刻な問題へと発展させてしまう
彼の性格はどのように形成されたのか。
私はマーヴィンの音楽を、そして彼自身の問題を
本当の意味で理解したいと思った。


★自分は不幸だと感じるのに、笑わなくてはならない時もあるし、
泣きたいのに大笑いしなけれなならない時もある。
残念なことに僕がかかわっている業界は、
自分がどう感じようが人々にはいい顔を向けなくてはならない。
そう、僕は自分の顔を隠し、捨てている。
ほとんど誰も、真実のマーヴィン・ゲイを見ていない。
<マーヴィン・ゲイ>

<06・6・5>